G.マーラーってどんな人?

音楽の都オーストリアのウィーンで活躍したユダヤ人の音楽家グスタフ・マーラー(Gustav. Mahler)。交響曲と歌曲に関して特に評価を得た人物で、作曲家としてはもちろん指揮者としても大いなる功績を残しました。

マーラーの生涯(1860~1911)

マーラーは1860年7月7日、オーストリア帝国ボヘミア(現チェコ)で、ユダヤ人の両親のもとに生まれました。14人兄弟の次男でしたが、長男含む7名が幼少期に亡くなってしまったため、マーラーは実質長男として育てられました。4歳頃からピアノやアコーディオンに触れ音楽的才能を開花させたマーラーは、10歳でイーグラウ市立劇場の音楽界にピアニストとして出演。15歳でウィーン楽友協会音楽院(現ウィーン国立音楽大学)に入学しました。学内でピアノ演奏部門賞、作曲賞を受賞するなど優秀な成績をおさめました。また、17歳の時にウィーン大学でアントン・ブルックナーの和声学の講義を受け、そこからブルックナーとの交友関係が始まりました。18歳で音楽院を卒業した後、23歳でカッセル王立劇場の楽長に就任。音楽祭でベートーヴェンの「第九」とメンデルスゾーンの「聖パウロ」を指揮し大成功をおさめます。その後ドイツ劇場やライプツィヒ歌劇場の楽長に就き、28歳の時にはブタペスト王立歌劇場の芸術監督に就任しました。そこでリヒャルト・ワーグナーの楽劇「ラインの黄金」と「ワルキューレ」の初演を成功させました。このように様々に活躍しているマーラーですが、若い頃の音楽生活は苦しく20代後半頃から徐々に生活が安定してきたようです。37歳で名門ウィーン宮廷歌劇場(現ウィーン国立歌劇場)の芸術監督に就任し、世界的指揮者として地位を確立させました。しかしその後、楽団員や音楽評論家との確執により10年で解雇されます。その後アメリカに渡り音楽活動を行いました。1911年50歳で敗血症により逝去。

マーラーの有名な曲

交響曲第5番
1902年(42歳)完成。第1~5楽章までの5曲でできているウィーン時代の絶頂期とされる頃の作品です。マーラーの交響曲はどれも壮大で長く難解であることが特徴です。そのような交響曲の中で第5番は、管弦楽の大編成で迫力がありメロディアスな曲調から比較的初心者でも親しみやすい曲となっています。特に第4楽章は1971年の人気映画「ベニス死す」に使われ有名となりました。

Gustav Mahler – Adagietto | Leonard Bernstein (4K) – YouTube

交響曲第1番「巨人」
1884年~1888年に作曲。上記の交響曲第5番と並んで人気の作品です。「巨人」という副題で知られていますが、これは小説からとられたもので、後にマーラー自身によって削除されています。同時期に下記記載の「さすらう若人の歌」という歌曲集を作曲していますが、その中の旋律が交響曲第1番に使用されている箇所もあり、両方聞き比べてみるのも面白いかもしれません。

Gustav Mahler: Symphony No. 1 (Lucerne Festival Orchestra, Abbado) – YouTube

さすらう若人の歌
1885年(25歳)に完成。この頃マーラーはソプラノ歌手の女性に恋をしていました。結果失恋に終わってしまうのですが、その気持ちが音楽にのせられているといわれています。

Mahler: Lieder eines fahrenden Gesellen, Fischer-Dieskau & Furtwängler (1952) さすらう若者の歌 – YouTube

マーラーのエピソード

・マーラーはどこの人か?
マーラーは「私は三十の意味で故郷がない人間だ。オーストリア人の間ではボヘミア人、ドイツ人の間ではオーストリア人、そして全世界の国民の間ではユダヤ人として」と語っています。ボヘミア生まれでユダヤ人であった彼は、どこにいても部外者という感覚を持っていたといわれています。晩年には自分のことを「ボヘミア人だ」と発言していました。

・指揮者として、作曲家として
指揮者としての仕事が忙しかったマーラーは、主に夏の長期休暇のときに作曲活動を行っていました。指揮者としては名声を得たマーラーでしたが、作曲家としては、当時はそこまで高い評価を得ることができませんでした。しかし彼は「やがて私の時代が来る」という信念を持ち作曲活動を続けました。マーラーの死後、ユダヤ人差別の時代がきて彼の曲が演奏される機会は激減しましたが、現在では世界中で人気の作曲家となっています。

・音楽美を追求した
当時の歌劇場は演奏を聴きに来る場というよりは社交の場として使用されていました。そのため、出入りが自由で演奏中も客席が明るかったそうです。また、実力はない人気の演奏者が贔屓されていたり、劇場が盛り上げ役としてサクラを雇ったりしていました。マーラーはこの状態を変えるべく、サクラを排除、実力主義で演奏者を選別し歌劇場の改革を行っていきました。しかし彼のやり方に対し批判も多くありました。

・死に対する考え
マーラーは死に対する恐怖が強かったといわれています。
彼は死が身近な生涯を送っていました。幼少期には兄弟の半数が死去。とりわけ仲の良かった弟が心臓水腫で長期間苦しんだのち亡くなったことは彼の人生でも大きな出来事でした。また、マーラーは42歳で結婚し二人の娘をもうけますが、マーラーが47歳の時に長女は亡くなります。
ベートーヴェンが「第九」を作曲した後に亡くなっていることから、音楽界では交響曲第9番を作曲すると死ぬというジンクスがありました。死ぬことを恐れたマーラーは交響曲第8番作曲後「大地の歌」というタイトルで交響曲を作りました。大地の歌を発表後死ぬことがなかったマーラーは安堵し、その後第9番を作曲しますが、結局第10番を完成させる前に亡くなってしまいました。彼の最後の言葉は「モーツァルト!」でした。

まとめ

今回はロマン派後期の音楽家マーラーについて解説しました。マーラーの交響曲はどれも長い曲が多く、初心者にとってはとっつきにくいかもしれませんが、聴く価値のある作品ですので是非聴いてみてください。

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